煎茶と抹茶の歴史と今を時代と共に語る

 
・当時の茶の色は緑色で無く「茶色」、現在の紅茶の様な色だった。

 

茶游堂当主 林屋和成です。

・現在では当たり前のようにある「お茶」。お茶と言えば緑色…ですよね。

 

 

しかし緑色のお茶が作られたのは、江戸時代の頃からとなっております。
それまでお茶の色は「茶色」。お茶の葉の煎じた液体が染料として使われ、「茶色」という名前が出来たのが室町時代といわれております。さらに時代を遡ると、お茶はとても貴重で、簡単には飲めませんでした。

 

・昔では非常に貴重である「お茶」。お茶と言えば茶色…だったのです。

 

 

今回、現在と昔で様々な変化をする「お茶」.
その中でも緑茶・抹茶の歴史を時代と共にどのように変化したのかを書いていこうと思います。
現在多く飲まれている緑茶が渡来後、約1200年の間に日本人の繊細で卓越した文化と技により、驚きの変化をいたします。もちろん、抹茶スイーツの誕生についても書いております。
ぜひ、最後まで読んでみてください。

 

 

・神話による「お茶」のはじまり

 

まず初めに、お茶は中華人民共和国(中国)をルーツとして紀元前2700年頃「神農(しんのう)」と呼ばれる皇帝が、お茶を発見したという神話が伝えられております。また、神農は農業、医学の祖と伝えられていたり、松明を発明して火による明かりや熱を得たことにより「炎帝(えんてい)」とも呼ばれております。神農炎帝は、薬草を集めるために毒草を食べたときの解毒剤としてお茶の葉を食べていたと伝えられています。
この神話からお茶が始まり、時代は流れ、薬だったお茶が飲まれるようになり、そして中国から日本へ伝えられてきます。

 

 

・日本にお茶が伝わる~  奈良時代~平安時代(710-1192)

 

奈良・平安時代遣唐使が留学僧により当時先進国であった中国に渡り色々な文化が渡来した中にお茶がありました。当時は蒸した茶葉を固めた物を砕いた茶の葉を湯で煮てスープを作る様にして飲んでいたと言われております。茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級の限られた人しか口にすることが出来ませんでした。

当時の茶の製法は「茶経(ちゃきょう)」にも記載がありますが「餅茶(へいちゃ)」と言われる物でした。

餅茶(へいちゃ)とは…
摘んだ茶葉を蒸し型に入れ形成し日干し後、火で炙って乾燥させ保存し飲用する時はそれを削って粉砕し、塩を入れた湯に加えて煮たあと器にいれて飲んでおりました。(※画像は現在の餅茶)

 

 

 

 

・お茶の栽培が始まる~  鎌倉時代~南北朝時代(1192-1392)

 

 

宋(そう)時代になり日本の臨済宗建仁寺の開祖である栄西禅師( えいさいぜんじ)が2度宋に渡り禅宗を学び、院内で盛に飲茶している様を見聞きし帰国後日本初の茶専門書「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著しました。
その本には茶の栽培、製造法、飲茶、効能まで記載されており、宋時代に作られた散茶は蒸し製でありお抹茶材料碾茶の原型といわれています。喫茶法では散茶を粉砕しお湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲むと記してあり、まさしく抹茶の原型とも推察されますが、当時の茶は保存方法も悪くまだまだ緑色には程遠い茶色のお茶でした。また、当時の将軍源頼朝に良薬として茶に添えて本書「喫茶養生記」を献上したと「吾妻鏡(あずまかがみ)」という歴史書に記されております。
栄西禅師は茶の種子を栂尾(とがのお)の明恵上人(みょうえじょうにん)に託してから明恵上人は現在日本最古の茶園と言われる高山寺の山間に茶の種子を植え、茶園を広める傍ら、最も茶の育成に良い地として宇治の現在地では宇治市五ヶ庄でその時農民に畑に畝(うね)を作らせ、種子を植えるように言ったが農民は植え方が分からいため、明恵上人は畝に馬を歩かせチドリ(左右の足踏みがジグザグになるような歩き)になった馬の足跡に種子を植えさせた。
現在、黄檗山万福寺が建つ当たりであり、山門の前にはそれを記念して「駒の足跡碑」が建てられている。
その後、京都からさらに茶園が広がり伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培され、鎌倉時代には禅宗寺院に喫茶が広まり、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透し、さらに南北朝時代には茶を飲み比べ、産地を当てる「闘茶」が盛んに行われる様になった。

 

 

 

・「茶の湯」が登場~  室町~安土桃山時代(1336-1603)

 

 

室町幕府の将軍足利義満は宇治茶に特別の庇護を与え、また豊臣秀吉もそれを受け継ぎ、これにより宇治茶
ブランドが形成され、安土桃山時代には宇治で覆い下(おおいした)栽培も始まり、高級な碾茶加工が始まりました。また、千利休らにより「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。
この頃から現在の茶の湯の形が確立され、現在に至り抹茶を点てて飲む文化が武家社会の中で政治的にも各武将の権勢を知らしめるために茶会も多く行われた。
しかし、この頃の抹茶も現在の抹茶とは程遠く緑色では無かったと推察されておりました。

 

 

 

・お茶の概念が変わる~ 江戸時代(1603-1868)

 

 

この頃、茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ武家社会に欠かせないものとなります。
江戸の時代に入り、抹茶とは違う煎茶と言うお茶が中国より隠元禅師(いんげんぜんじ)が伝えました。
明恵上人が茶の種子を植えてから300年後に宇治五ヶ庄の地に隠元禅師は黄檗山万福寺を建立し、黄檗宗と共に煎茶を広めていきました。当時、黄檗僧である月海と言う僧侶が喫茶道具を携えて町に出ていき、飲茶をして煎茶の普及活動を行い、当時「売茶翁(ばいさおう)」と呼ばれ庶民にまで煎茶は浸透いたしました。

そして1738年に現在の緑茶の原型となる茶を、京都宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)が製茶方法の改革をして、良質な煎茶製法を編み出しました。それは、摘み取られた茶葉を湯がくのではなく、お湯の蒸気で蒸すことにより摘みたての鮮やかな緑が保つ方法を発明したのでした。
それまでは中国の製造法である、蒸さずに釜で炒る釜炒りが主流であったのが一変、画期的でこれまでに無い緑色の水色と甘味ある茶葉を作り上げました。「宇治製法」と呼ばれ全国の茶産地に電光石化の如く広まり、碾茶に用いられていた覆い下茶園の茶葉にも広がり、1835年には山本嘉兵衛(やまもとかへい)により覆い下茶園で摘み取られた茶葉を煎茶製法で製造する「玉露」と言うお茶の製法も生まれました。

この時代より「お茶と言えば茶色」から「お茶と言えば緑色」にお茶の概念が変化していくのでした。

江戸時代末期には、日本はアメリカと日米修好通商条約を結び、これにより茶葉は海外へ輸出が始まりました。

 

 

 

・茶園が広まる一方…~  明治時代~大正時代(1868-1926)

 

 

明治維新と共にお茶の輸出は日本経済に大きく貢献いたしました。
日米修好通商条約を締結したアメリカ合衆国の外交官、タウンゼント・ハリスが来日後、茶葉の形状等を良くするために静岡の大生産地では製茶機械も作られ、現在の茶葉の形にかなり近くなっていきました。
山間で栽培されていた茶葉も平地での集団茶園栽培へと、どんどん進んでいき、現在の大生産地になっている静岡茶が確立しました。一方、花形輸出品とて発展した茶も茶園造成等にも莫大な費用がかかり茶の輸出
価格の下落により少しずつ後退して行きました。
この時代の「お抹茶」については、まだまだ閉鎖的なインドアな形となっておりました。
湯を沸かして茶を点(た)て、茶を振る舞う「茶道(さどう)」と言う形で室町、安土桃山、江戸、明治、大正と受け継がれていたがまだまだ民衆には縁のない程遠い存在となっておりました。

 

 

 

・お茶を葉で買うより液体で買う変化~ 昭和時代~平成時代(1926-2019)

 

 

お茶は昭和の初めの頃はまだ、ほとんどの人々が水を飲んでおり、あまり民衆はお茶を飲んでいなかったと文献に記載があります。
昭和25年以降徐々に高度成長に伴い、お茶も飲まれる様になり、ついには昭和50年(1975年)にはお茶が過去最大の生産量となり、茶業界も大きく飛躍した新聞等では貰って嬉しい商品ベスト5には必ず入るほど人気のある商品となっていきました。
しかし後に、虚礼廃止、香典辞退、各企業の経費節約などでお茶が一気に売れなくなっていきました。
また茶葉は、専門店での指定銘柄があるお茶を買い求めるのが主流でしたが、スーパー等の普及により銘柄や味では無く、低価格でチョイ買い商品となり、専門店で茶葉を買う事がだんだん少なくなっていきました。
今まで右肩上がりしてきた急成長が本当に急降下していきました。
特に茶の味では無く500円、800円、1000円みたいな価格ランクでしか、お茶を見極めることが出来なくなってしまっていきました。

平成時代に入り茶は葉で買うのでは無く液体で購入する時代に突入した。
京都の茶業界の幹部達は、「缶ドリング入のあんな不味い物誰もお金出してまで買わない」、「基本お茶はご飯屋さんに行けば全て無料。100円出して買わないよ。」、「私たちが毎日作り上げている茶葉の方が美味しいから絶対負けるわけない」と豪語していました。
しかし消費者は、簡単便利な缶ドリンクを購入して飲み、これは凄いスピードで流行していきました。
私はこの時に、こう思い考えました。
お茶は二次加工商品茶葉(販売している茶葉)を購入後、急須等で淹(い)れて飲む形なので、ちゃんとしたお茶の淹れ方をしておらず、消費者は生産者の思う様に美味しく飲んでくださっていた人達は極少数だったのだと思いました。
簡単に飲めて、いつでもすぐに飲めて便利、さらに何回飲んでも同じ味でお茶を飲むことができる。
その答えが如実に出た瞬間でした。
お茶を販売する専門家がしっかり飲茶のレクチャーをしていればこんな結果には成らなかったかもしれません。緑茶は、珈琲や紅茶や烏龍茶などは違い、種類が多く抹茶・玉露・芽茶・かぶせ茶・雁ケ音・煎茶・粉茶・玄米茶・ほうじ茶と9種類のお茶に分けることが出来ます。これは日本人が色々な時、場の環境に合わせて生み出したもので全て淹れ方に違いがあります。厳密に言えば茶に寄って茶器も変わるほど…。
日本の緑茶は最初に述べたように緑茶は渡来後1200年の間に日本人の繊細で卓越した文化と技で日本風に変わり、お茶と言う物を日常生活に取り込み、そして繁栄して来ました結果です。

 

 

 

・抹茶が主役の抹茶スイーツへの思い

 

このように時代と共にお茶の歴史は、素晴らしい発展をしていきました。
さてここからは私、林屋和成が抹茶スイーツをどのような経緯で開発したのか、また「抹茶」の定義などについてもお話ししたいと思います。
私は茶を飲むだけでなく美味しく食べる事が出来る食品として新たな「抹茶スイーツ」というジャンルを1989年に考案し発売致しました。

 

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※最初に抹茶スイーツを考案し、販売した抹茶トリュフチョコレート

 

1980年くらいから構想を温めていました。それはサントリーがウーロン茶の缶ドリンクを発売した頃に遡ります。まだまだ当時、お茶は一般的にはお金で買う物でしたが、外食などをする時、店内ではほとんどおもてなしとしてお茶が無料で振る舞われます。それは令和の時代でもあまり変わらない光景ですが、その様な時にまだまだ民衆に広まっていなかったお茶「ウーロン茶」が缶ドリンクで発売されました。私は、(こんな感じで緑茶も缶ドリンクで発売する時代が来たら大変なことになるなー…。)とぐらいにしか思っていませんでした。そして月日が経ち、緑茶の缶ドリンクが試作され、私は緑茶の第一号の試作品を飲む機会がありました。その時は大変美味しかったと記憶しています。そして発売すると言う時に1984年熊本のからしレンコンからボツリヌス菌中毒が発生し死者も出る大きな事件が起きました。その後、密閉された容器で販売する商品は全て熱殺菌が義務付けられてしまいます。緑茶の缶ドリンクも熱殺菌が必要となり熱殺菌後の緑茶の缶ドリンクのお茶の味はとんでもなく不味い物でした。しかし、技術者の並々ならぬ改良のおかげでビタミンCを加えて少しでも酸化を防ぐ方法に辿り着き、発売されたと記憶しています。
その時に販売された缶ドリンクもスチール缶入りで美味しいとは言えない物でした。お茶の販売のスタイルが大きく変わり、抽出された液体で販売される時代が近い将来必ず来ると私は確信していました。その結果当時、街にどんどん出来始めたコンビニエンスストアでも販売され、電光石化の如く緑茶缶ドリンクは売れ出します。その緑茶缶ドリンクの味が、本来の茶の味と認識されたのではだめだと思いお茶の本来の味がしっかりする何か食べ物が作らないとお茶屋の存続自体危なくなるのではないかと考えて行く内に抹茶に辿り着きました。

緑茶はお湯を入れて抽出することで香り、味、色が出ないですが、抹茶は何も加工しなくても味わえる食品で古くからあるインスタント食品。その抹茶は民衆からはお茶のなかでも高価で馴染みがあまり無いが興味を持っているお茶なのでしっかり抹茶の特性を生かせば美味しい物が作れるのではと考えました。
私が抹茶スイーツを考案するまでにも各和菓子、洋菓子店では抹茶を使用したお菓子はありましたが、抹茶の特性が生かし切れておらず、特段抹茶にこだわることのない商品でただ単に「お茶を使用しています」と言うだけで抹茶の味がしないものばかりでした。当時の代表商品は茶団子、茶飴、抹茶羊羹、などが代表的なお菓子です。

私は視点をお茶屋側から見たお菓子。
抹茶にこだわりお茶が主役のお菓子を考案したとことで新しい洋風和菓子の礎を築いたと言われています。

私が1989年にお茶屋の視点から考えたお菓子として抹茶スイーツを考案してから31年になろうとしています。
インバウンドのバブル的なおかげで日本全国どこでも販売される、今ではありふれたお菓子になり、市民権も得て全世界中から日本観光のお土産には必ず抹茶スイーツがある程の状態になりましたが現在、価格競争も激化して参りました。

 

 

・抹茶について

 

最後にここで、宇治茶の定義と抹茶の定義についてお話します。

2007年5月25日に京都府茶共同組合が宇治茶の定義として「京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県産茶を京都府内業者が京都府内において宇治地域に由来する製法により仕上げ加工した緑茶」を宇治茶としました。
それに比べ、まだしっかり定まって居ないのが抹茶の定義です。
現在は抹茶スイーツに使用されている「宇治抹茶使用」、「京都府産・宇治抹茶100%使用」と記載されている商品がお土産店、コンビニエンスストアで沢山販売されています。
宇治茶の定義にはしっかり適合していても、本来抹茶とは言えないお茶のパウダーを抹茶だと間違えた認識で使用されている。
今、日本茶業中央会は抹茶の定義を考えている。

本来、抹茶は覆い下茶園で摘採された茶葉を蒸し揉まずに碾茶炉で乾燥された「碾茶」を石臼又は粉砕機で粉砕したパウダーが抹茶です。

しかし現在は宇治茶であれば、どのお茶を粉砕してパウダーにすれば宇治抹茶と言う位置付けになります。

この日本茶業中央会の抹茶の定義が決まるとお土産店、コンビニエンスストアで販売されている抹茶使用のお菓子の大半は消えるでしょう。

茶游堂は、しっかり1989年に宇治抹茶スイーツ考案した時と同じ、宇治抹茶の定義にふさわしい抹茶を使用しています。

この機会にぜひ、茶游堂のお抹茶スイーツをご賞味下さいませ。

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